一つもってらっしゃらないとすれば、ご主人かしら。
そんなことはどうでもいいわね、とにかくずっとお一人でお暮らしで、寂しいだろうと思いきや、もうとにかくお忙しい方で、しかも、充実した生活をお送りよ。
本業もそう、趣味の方だって何をやらせても超一流、それでご飯を食べていけるんじゃないって思うくらい。
それにね、それに輪を掛けるくらいの、美貌よ、美貌」
相手も自分と同じくらい興奮しているに違いない、という期待を込めて、女は助手席を見た。
助手席の若い男は、曖昧な笑みを浮かべた。
こう言うとね、不思議に思うでしょ、そういう人と付き合うと、劣等感が増すばかりじゃないかって。
だって、私、才能だって、美貌だってあるわけじゃないし。
これで、普通の、一般的な才能ある美人のそばになんか寄れないわよ、比べられるのイヤだし。
でもね、くみ……じゃなくてそのさるお方といるとね、そんなこと忘れちゃうの。
ざっくばらんとしていて、嫌みがなくて、話が面白くてね。
いつも仲間の中心にいるような方よ。
あのお方を囲むサークルがいくつもあるの、わかるわぁ。
みんな一度会うとあのお方のとりこになってしまうのよ」
ちょうど細い道が交差する角に車がさしかかり、運転席の中年女は、話をやめ、慎重にハンドルを操作して左折した。
そして、ほかの誰も聞いていないはずなのに、声を落として助手席の男に囁きかけた。
「それでね、ある日ね、私、あなたのことをさるお方にお話ししたの、もう一月くらい前。
そうしたら『ぜひ逢いたい』って、あの方がすごく興味を持ってね。
でも、あの方も身分のある方だから、『煙突屋』に入会できないわよね、だからね、私言ったのよ、『今度カンちゃんが付くようなことがあったら、連れてきますから』って。
私、『煙突屋』の社長さんに確認したんだから。
『規定の時間内なら、付いたコをどうしようがお客様の自由です』って。
そうでしょ?」
女の問い掛けに、助手席の男は、
「そのとおりです」
とはっきり答え、うなずいた。
女は車を止め、
「さあ、もうすぐだわ。
もうすぐそこよ、さるお方のお屋敷。
それで、悪いけど、カンちゃん、ここで目隠ししてくれる?悪いけど、さるお方の素性をあなたに知られたくないの。
さるお方も、あなたの素性には無関心でいる、これが約束よ。
私の言うとおりにしてね。
大丈夫よ、うまくいくわ」